明治二十三年、初代 木津音松により
「糀屋」を営み始めました。
音松が始めた「木津糀屋」は
代々受け継がれていく中で、
次第に醤油や味噌の仕込みも
手がけるようになりました。
現在、五代目が営む木津醸造所。
其々の時代に適応しながらも守り続けてきた心と技法。
五代目もしっかりと守り続けています。
弘化4年 | ■木津利左衛門の次男として木津音松が誕生した。 |
明治19年 | ■木津利左衛門の死去により木津音松が |
「利左衛門隠居」として分家した、 | |
この「利左衛門隠居」の屋号が、 | |
現在まで当家の屋号として継続している。 | |
明治23年 | ■初代、木津音松が糀屋として創業。 |
音松の娘 シゲに婿養子として喜作を受け入れる。 | |
明治41年 | ■3代目 木津義治 誕生。 |
昭和11年 | ■4代目 木津利雄 誕生。 |
昭和15年 | ■後に利雄の妻となるハル子誕生。 |
昭和26年 | ■5月24日、糀室から出火。 |
家と作業場が火事になり全焼。 | |
集落の方々より丸太で仮住まいを | |
作ってもらい生活をしていた。 | |
昭和27年 | ■桐沢の重兵衛より古屋を譲り受け生活再開。 |
昭和30年頃 | ■醤油の委託製造を始める。各家庭に出向き醤油醪を造っていた。 |
昭和34年 | ■4代目 木津利雄・ハル子結婚。 |
ハル子は糀ヘギの上にかける「藁こも」をこれより毎年作り始める。 | |
昭和36年 | ■販売用みその製造を始める。 |
昭和39年 | ■東京オリンピック開催。新潟地震発生。5代目 木津誠誕生。 |
昭和42年 | ■味噌の作業工場を新設。 |
昭和43年 | ■味噌の仕込み蔵を新設。 |
昭和51年 | ■住居新築。この住居は平成13年に一部増築をして現在も住み続けている。 |
昭和60年 | ■2坪の冷蔵庫を導入。 |
昭和62年 | ■赤飯、おこわの工場増築 仕出し業の許可を受ける。 |
平成3年 | ■5月15日 3代目 木津義治 死去。 |
平成6年 | ■仕込み蔵脇にみそ漬け工場を増築。 |
それと同時に瓦噴きだった屋根を、雪自然落下式の屋根に葺き替えた。 | |
平成7年 | ■下水道整備が始まる。 |
平成9年 | ■井戸掘削。これにより硬度15の超軟水、 |
八海山の伏流水が湧き出てきた。 | |
平成16年 | ■3月3日 4代目 木津利雄 死去。享年69歳の早すぎる他界だった。 |
平成16年 | ■7月10日 新潟福島豪雨7.13水害と呼ばれるが、 |
この地では10日~11日にかけて裏山からの | |
土石流が家の前を流れていった。 | |
平成16年 | ■10月23日午後6時頃 中越地震発生。 |
みそ漬け詰め作業中の母の手を握り、工場から外に飛び出した。 | |
工場のあらゆる所に影響が出たが、幸い崩壊には至らなかった。 | |
平成23年 | ■塩糀ブーム。糀屋がこれまで大きく取り上げられたことはなかった。 |
糀、塩糀、寝せ糀、糀商品が売れ、糀が品切れに。 | |
作業は早朝から深夜まで続き、売り上げは伸びたが、 | |
体力的には限界に近かったのではと思う。 | |
平成23年 | ■南魚沼市食品衛生協会指導員になる。 |
平成25年 | ■工場増築工事始まる。 |
■第一期工事 | |
資材、車両倉庫新築。 | |
■第二期工事 | |
製品加工、充填包装、殺菌、 | |
仕出し加工(赤飯)場改修。 | |
平成26年 | ■第三期工事 |
事務所兼商談接待所 新築。 |
屋 号 | 木津醸造所 |
所 在 地 | 〒949-7224 新潟県南魚沼市大桑原600-2 |
電 話 | 025-779-3048 |
フ ァ ッ ク ス | 025-779-3587 |
フリーダイヤル | 0120-304-866 |
代 表 者 | 木津 誠 |
創 業 | 1890年(明治23年) |
営 業 許 可 | 醤油製造業、みそ製造業、漬物製造業、 |
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